シベリアのペスト対策研究所で命を落とした28歳研究員、ダリア・シピロワ氏。
ロシア当局は「業務に起因する病原体は検出されず、死因は原因不明の肺炎」と発表しましたが、バイオセキュリティー(生命安全保障)の専門家たちはこの説明に大きな疑問を投げかけています。
「私に言わせれば、このシナリオは辻褄が合わない」
そう語るのは、ボストン大学新興感染症センターの創設所長、ナヒド・バデリア医師です。
ではなぜ国際的な専門家は、ロシアの発表を鵜呑みにできないのでしょうか?
1.BSL-3施設で起きるはずのない「エラーの連鎖」
ペスト菌(Yersinia pestis)のような危険な病原体を扱う研究所は、通常「BSL-3(バイオセーフティレベル3)」と呼ばれる高度な安全基準が義務付けられています。
こうした施設には、以下のような多重の安全装置(プロトコル)が張り巡らされています。
1)物理的防壁:部屋自体が陰圧(外に空気が漏れない仕組み)に保たれ、強力なHEPAフィルターで換気される。
2)個人用防護具(PPE):高機能マスクや防護服の着用。
3)曝露後予防(PEP):万が一、事故で菌にさらされた場合、即座に抗生物質(ドキシサイクリンやサイプロフロキサシンなど)を予防投与する手順の確立。
4)健康監視と強制隔離:事故報告があった場合、該当職員は直ちに監視下に置かれ、外部との接触が制限される。
バデリア医師が指摘するように、「試験管が割れて感染した」というストーリーが成り立つためには、あまりにもあり得ないエラーが同時に重なる必要があります。
「彼女が試験管を割り、個人用防護具に不備があり、その事故を報告せず、抗生物質の予防投与も受けず、誰の監視下にも置かれないまま帰宅し、地元の地区病院に現れて200人を危険にさらした……という状況がすべて揃わなければならない」
経験豊富で責任感が強かったと評されるシピロワ氏が、これほど無数の安全プロトコルをすべて破り、黙って帰宅したとは考えにくいのです。
2.「200人追跡調査」と除外診断の落とし穴
ロシアの公衆衛生当局ロスポトレブナドゾルは、シピロワ氏と接触した197人を特定して経過観察を行ったと発表しその結果、2人がCOVID-19、2人がライノウイルス(風邪の原因)に陽性だったものの、それ以外の感染症の兆候は見られなかったとしています。
一見すると、迅速で完璧な追跡調査が行われたように見えますが、疫学的に最も重要な点が欠落しています。
それは、「具体的にどのような検査を行い、何をもって『ペスト菌陰性』と断定したのか」という点です。
感染症の調査において重要なのは、単に「風邪のウイルスが見つかった」と発表することではありません。
「ペスト菌のPCR検査や血清検査を実施し、それが陰性であった」という明確な除外診断のデータを開示することです。
この透明性が示されない限り、医療専門家の不信感を払拭することはできません。
3.米アリゾナ州の事例が示す「明暗」
ペストという病気の恐ろしさと、適切な対処がいかに重要かを示す事例があります。
2025年7月、アメリカ・アリゾナ州で男性が病気の猫から肺ペストに感染する事件が起きました。
男性は症状が出てから2日後に受診したものの、病院到着からわずか8時間後に亡くなってしまいました。
しかし、アメリカの衛生当局の対応は非常に迅速で男性と接触した46人を即座に特定し、予防措置として全員に抗生物質を投与(曝露後予防)した結果、二次感染者は一人も出ませんでした。
もしシピロワ氏がペスト菌に曝露していたとすれば、なぜアメリカの事例のような迅速な初期対応(抗生物質の投与と隔離)がなされなかったのでしょうか?
それとも、彼女が感染したのはペスト菌ではなく、私たちがまだ知らない「別の何か」だったのでしょうか?
次回では、情報封殺の裏にある国際政治の影、そしてパンデミック後の世界が直面する「真のバイオリスク」について考察します。






